【概念思考】心眼

「肉眼で見えるものとは、とても限られた世界を見ているに過ぎない。自分が見ている世界は、極めて狭い範囲でしかないことに気づく必要がある」

私たちは可視光線という限られた波長の世界だけを捉え、それが世界のすべてであるかのように錯覚しています。しかし、肉眼で見える表層だけに一喜一憂していては、物事の本質を何一つ見ていないのと同じです。物理的な視覚を超え、現象の奥にある背景や人の心の動き、社会の真の姿を識別する心の働き――それこそが「心眼(しんがん)」にほかならません。

「眼」という漢字の起源を紐解くと、対象をしっかりと見据えて見抜く、強い意志のメカニズムが見えてきます。

漢字の起源からみる「眼」

身体の部位である「目(意符)」に、立ち止まって見据える・瞳を意味する「艮(音符・コン)」の組み合わせ。

「艮(ごん)」には、まっすぐに視線を固定して凝視するという意味が含まれています。つまり「眼」とは、ただ光が網膜に映る状態ではなく、見ようとする強い意識を伴って対象の核心をじっと見据え、その構造を「まなこ」に焼き付ける能動的な行為を意味しているのです。

「心眼」を捉える私の概念としては、以下の3点です。

意思

修養

素直

【コラム:汚れに気づく者、背景を慮る者ーー五眼の思想と「素直な受入れ」がもたらす眼力】

同じ部屋にいても、ある人には床の汚れがはっきりと見え、別の人には全く見えないということが起こります。これは視力の差ではなく、そこに「掃除の目的(綺麗にする)」を理解し、見ようとする「意思」があるかどうかの差です。人間は、自らの意識のフィルターを通してしか世界を認識できません。

人生やビジネスにおいても同様です。 肉眼が見せる狭い世界だけに振り回されていると、目の前の事象の裏にある真実に気づくことはできません。しかし、心眼をもって世界を見る習慣を身に付けると、可視領域を超えた「背景」が鮮明に浮かび上がってきます。

駅で疲れて俯いている人を見かけたとき、単に「暗い人だ」と片付けるのではなく、「一日中、大切な誰かのために一生懸命働いた帰りなのだろう、ご苦労様」と心の中で声をかける。イライラしている人がいれば、「物事が思うように進まず、もどかしい状況にあるのだろう」とその葛藤を慮る。この、現象の奥にある文脈を見抜く能力こそが、人間関係を、そして社会を良くしていくための大いなる知性です。

仏教では、人間の持つ眼のレベルを「肉眼(にくげん)」「天眼(てんげん)」「慧眼(えいがん)」「法眼(ほうげん)」「仏眼(ぶつげん)」の五眼(ごげん)で説明しますが、これらはすべて、肉体的な制約から離れて物事の本質を見抜くアプローチです。

このような高い次元の眼力を養うために不可欠なのが、一切の先入観や我執を捨てて対象をそのまま「素直」に受け入れる姿勢と、日々の「修養」にほかなりません。

自分を良く見せようとする虚栄心や、自分本位な我利我利(がりがり)の視点で世界を見ている限り、心眼が開くことは決してありません。自らを空(から)にして他者に寄り添い、万事に感謝する生き方を貫くからこそ、他者の痛みや組織の真の課題(本質)が、心の中に鏡のように映し出されるのです。

「心で見るとき、世界はその真の姿を現す」ーー 今日、あなたは目先の数字や表層の現象に惑わされず、どのような「心眼」をもって目の前の人と対峙しますか?