【概念思考】 今日のテーマ:流るるがごとく
【定義や成り立ち】
定義: 水が遮られることなく高い方から低い方へと淀みなく進むように、一切の執着や抵抗を排して、現実の推移や大いなる運命の流れに身を委ねて生きるさま。真言一致・志行相即・清澄透明・闊達無碍(かったつむげ)なる境地。
成り立ち:
㐬(りゅう): 頭を下にして生まれてくる胎児の象形「𠫓(とつ)」と、さらさらと流れる「川(水)」から成る。
古代の先達は、新しい命が誕生する際の「羊水とともに、逆らうことなく自然の力に導かれて外の世界へと滑り出てくる絶対的な身の委ね方」を観察し、この文字を創り出しました。
これに「水(氵)」を添えて「流」とすることで、「作為や抵抗を一切挟まず、宇宙の根源的な摂理(大川)の流れに自らの全実存を融け込ませ、淀みなく進み続ける状態」を表現しています。
【私の概念】
逆らわない
素直に受入れる
身を委ねる
【考察】
流るるがごとく生きる本質は、主体性を失って漂流する「惰性(あきらめ)」では決してありません。それは、自らの「小我(エゴ)」という岩を融解させ、運命の濁流さえも推進力へと変えていく「最高次元の能動性」です。
1. 持して執せず、到っては止まらない「闊達無碍」 「持して執せず、到っては止まらず」という言葉は、まさに水の徳(水徳)そのものです。水は四角い器に入れば四角くなり、丸い器に入れば丸くなります(闊達無碍)。しかし、自らの「水である」という本質(志や理念)は1ミリも変えていません。 何かを成し遂げようと強い思いを持ちながらも(持して)、その方法や目先の成否に決して固執しない(執せず)。成功や順境の頂点に達しても、そこに傲慢に安住することなく(到っては止まらず)、ただ淡々と次の「利他」の現場へと流れ下っていく。この淀みのなさが、精神を常に清澄透明に保ち、志と行動を完全に同期(志行相即)させる原動力となります。
2. 入口で踏ん張らない「事前の受容」と観察 直面する厳しい逆境、病気、あるいは想定外の摩擦。これらに対して肩肘を張り、自分の都合(ものさし)で「なぜ自分が」「こんなはずはない」と入口で踏ん張って抵抗することは、自らの周りに強烈な反発のバリアを築く行為です。それは自分自身を激しく疲弊させるだけでなく、周囲に対しても「怒り」という負の波動を撒き散らす結果となります。 流るるがごとき人は、現況を素直に受入れる(現況肯定)。入ってきた流れに逆らわないため、衝撃の摩擦係数はゼロになります。一度心を虚(空洞)にして丸ごと受け止めるからこそ、「なぜこれが起きたのか」を冷徹かつ静かに観察・内省することができ、再発防止の知恵や、自らの未熟さを磨くための「別格の学び(成長機会)」へと鮮やかに転換できるのです。
3. 運命の波動に「身を委ねる」という絶対的確信 すべての巡り合わせを偶然ではなく「必然(因縁果の理)」として捉えるとき、人生の流れに身を委ねることは、自らを幸せのゴールへと運ぶための最も賢明なサーフボードとなります。 そしてその流れは、人生の終点(寿命)という最後の関門へと至るとき、最も美しく輝きます。天から預かった魂を、毎日の朝の読書会、日々の反省、そして一所懸命の喜働によって極限まで磨き上げ、一点の濁りもない真っ当な状態にしてお返しする。肉体の喪失を「奪われる絶望」とするのではなく、授かったものを感謝と共に天へ還す「聖なる返還」として素直に受入れる。この覚悟が腹の底に据わっている(胆識)人間だからこそ、一瞬一瞬の対話に命を載せ、本気で生き切ることができるのです。
流るるがごとく生きるとは、自らの正しさを主張する防波堤をすべて取り払い、世界という大河の波長と完全に一体化しながら、大義に向かって威風堂々と下っていく、魂の絶対的な自律である。


